森田さんおめでとうございます。
森田さんの仕事は日本の中でもとても重要な仕事をしている。
こういう仕事が報われる賞はなかなかない。
河合隼雄学芸賞を差し上げることができたこと、
選ぶ現場に立ち会うことができて、
僕らもとても嬉しく思っています。
『計算する生命』というオシャレなタイトルなんですけれど、
このタイトルは人間のメタファーになっている。
生命体の中でも計算能力を持っていて、
その特殊な計算能力を極限まで発達させることができた人間。
人間の能力が地球上でたいへん勢力を強くしてしまった、
その最大原因は計算能力にある。
人新世、地球上の気候変動から何からすべてに
人間の行いが決定的に重要性を持ってしまっている。
僕はそれを決していいことではないと思っている。
人新世という時代が形成される一番の原動力になっているのも、
この計算能力にある。
計算というものが近代になって爆発的に発達するんだけど、
そのことの意味を、深いところで、
森田さんはこの本の中で考え抜こうしたんです。
かなり苦闘しています。
真ん中あたりから苦労している様子がはっきりわかる。
そのくらい大変な仕事だったと思います。
僕は今は宗教学や人類学をやっているけど、
昔は生物学の学生でした。
その中で印象深かったのは、
生命が計算している事態を顕微鏡や実験室で見たとき、
びっくりしたんです。
南方熊楠が粘菌という生物を深く研究しましたが、
粘菌というのは動物とも植物ともつかない。
環境が良くなると動物みたいにべたーっとアメーバ状になって
地面や木の上を這っていく。
環境が悪くなると胞子を出すような植物になる。
動物と植物を行き来する生き物なんです。
この生き物を人間が作った迷路に入れてみると、
粘菌はアメーバ状に広がっていくけれど、
この迷路の出口を短時間のうちに発見して出口に集まっていくんです。
粘菌が最短距離を計算して探し出しているらしい。
粘菌は脳もない、中枢神経系もない、神経組織すらない。
自分が考えたことを原形質流動で伝達して思考している。
そのことが現代ではだんだん明らかになるけれど、
生物学をやって一番びっくりしたことはこのことだった。
脳もない、神経組織もないのに計算能力を持っているらしい。
科学者の中では計算しているとは認めていない人もいるけど、
僕は計算していると思う。
生命の根源で計算能力を持っているが、
脳が行う論理過程とは違うらしい。
まだ全然わからない。
そういう生命と計算を考えるととっても不思議なことが頭に浮かんでくるようになります。
長い生物の進化の過程で人類は生まれる。
人類は数を数えるようになる。
数を数えた痕跡が残されるのは、
骨の上、地面や岩の上に線で描かれることが多い。
体の上に描かれる入れ墨。
これによって、数の能力を持っていることがわかる。
入れ墨をご覧になった方は、している方もおられるかもしれませんが(笑)、
入れ墨にはパターンができる。
ということは明らかに計算能力があるんです。
地面の上の線、岩の上に書かれる線、
肌の上の線、骨の上の線によって月齢の計算をしている。
人類が出現した瞬間に計算能力は備わっていた。
しかも粘菌のような生物のようなものにまで
深いところまでその根源は達している。
人間の計算能力はそのくらいの歴史を持っている。
しかし肌や骨の上に刻んだものは、
そこから引き剥がすことができなかった。
地面や肌と一体となっていた。
ところがそこに大革命が発生した。
今から4,5千年前、中近東の新石器革命が発生し、
人類が農業をするようになった。
そのころメソポタミア中心にしてトークンが出現した。
トークンとは粘土でできた数を数える道具です。
今までの数は地面、骨、肌に固着していた。
それを引き剥がして、いわば抽象化して、
人間が自由自在に扱える数に変貌した。
ここから人類の数学が始まった。
森田さんのこの本ではトークンから始まっている。
人間が自由自在に地面や自然に縛られず、
地面から数を数える能力を引き剥がして自在に扱えるようになった。
その時に数学が発生している。
新石器革命と同時に起こっている。
農業、定住、都市を作ることが同時に発生している。
人新世と呼ばれている人間中心の地球観が出現し始めたのは、
この中近東あたりでおこった革命から始まっていることになる。
数学はある種の抽象化能力を持つようになった。
自然に縛られず、そこから自由に引き剥がして
数を自由自在に扱えるようになった。
最初はトークンから、
だんだん記号化し自在に扱えるようになり、
数学は大発展を遂げるようになる。
ここで大きな問題が発生してくるようになります。
つまりもともとは生命と直結していた計算能力が、
トークン以後の、地面から引き剥がされた数学では、
抽象化して、一方では生命過程とは異なる独自の論理過程へ発達していく。
もう一方は大地につながっている直観というものに分離が始まります。
数学自体では一緒になっているように見えるけれど、
分離が始まったのはトークンの発生以来だった。
数学は一方で論理的にたいへんな発展を遂げていく。
その発展過程を森田さんはとても上手に描いている。
数学は直観といつも結合している。
直観は完全に論理化できない。
ところが数学は論理を発達させる。
その二つを見事に結合させながら数学は発達していく。
一番大きい変化は微積分学ではないかと僕は思っている。
微分は完全に論理化合理化はできない要素を孕んでいる。
微分法を発達してきた時に数学は難しい問題を抱え込むことになった。
それを哲学化し始めたのがカントだった。
このあたりから森田さんの苦闘が始まる。
カントが論理と直観の問題を、
もともとニュートンやライプニッツの微分法に含まれていた
パラドクスをなんとか解決しようとしてカントが悪戦苦闘する。
このあたり森田さんも格闘している。
実は現代数学はこの時発生して、いろいろな矛盾を解決できていない。
一方では論理の側は、フレーゲが出現して、
論理代数に作り変えてくることができるようになる。
ここからコンピューターまで一気に発展していく。
もう一方では、数学は直観という生命過程といつも一体となって動いている。
数学が発展していく時に何が起こっているかというと、
直観によって自分を拡張していく。
そのように発達してきている。
論理的計算能力に関しては、
今はコンピューターがたいへんな発達を遂げて、
まるで人類をしのぐ能力を示すと考えている人たちはいるけれど、
しかし数学はそうはいかないのではないか?と僕は思っている。
生命の過程は、謎のように数学の過程にどっかり座っている。
人間は決して合理化されてしまうような生き物ではないというところが、
数学という学問の面白いところだと思う。
森田さんは自分より前にこういう仕事している人はいないから
当然苦闘せざるを得ない。
しかし現在ある地点で到達できるところまで到達する努力を重ねた、
そこがたいへん立派だった。
長くなっちゃった、5分と言われたんですけど、長くなっちゃったんですけど(一同爆笑)
この講評を頼まれるときに河合三兄弟から、
褒めるだけでは面白くないから、
批判も言うべきだと言われていますので、
心ならずも(一同爆笑)批判めいたことも言わないといけないと思っています。
森田さんの欠点は、文章がうますぎる。
文章がうまいことはいいことだと思われるけど。
ソクラテスが言っていますね?
巧みな表現、弁舌さわやかな講演はダメだと。
なぜかというと、
デーモン(ダイモン)が入ってくる入り口を塞いじゃう
っていうのがソクラテスの考え。
ソクラテスは人間の論理と生命の矛盾をよく知っていた。
論理や言葉の表現がうまくできてしまうと、
大地の底から湧き上がってくるようなデーモンが
流入することができなくなってしまうと言っている。
ソクラテスの時代には、上手な文章を書く人、
演説が上手な人はソフィストと呼ばれていた。
ソクラテス自身もソフィストに違いなかったけど、
デーモンの力が論理に流入してくることを
作り出していくことができることがソクラテス流のソフィストだった。
あまりに上手な表現はときとして自分の首を絞めることになる。
これは長い間ソフィストと言われてきた僕がいうんですから間違いない(爆笑)。
これに関してはソクラテスは全く正しいと思う。
タイトル、『計算する生命』とは人間の比喩。
かなりいけてるタイトルの中に包み込まれてしまうと、
底が閉じられてしまうんです。
上手な表現の中に底が閉じられる。
計算する生命はメタファーですが、直喩に戻してみると、
生命は計算する。
すると先ほどの粘菌が立ち上がってくる。
生命は計算するよ、
脳がなくても神経組織がなくてもやるんですよ。
そういう生命の計算能力が立ち上がってくる。
これがデーモンです。
森田さんはまだ若いから苦闘して精進しないといけない。
デーモンが立ち上がって来るような学問を作らないと
本物にならないんです。
そのへんは経験者が言うんですから、
心に秘めておいていただきたいと思います。
これからの活躍を期待しています。
すんなりと進んでいく道ではない、
ある意味茨の道だと思いますけど、
そこで獲得できるデーモンとの接触はものすごく楽しいですから、
それを信じて頑張ってください。